Top > 雑誌寄稿 > 《特別編》 事例で学ぶ物流改善:『流通系物流子会社S社』

《特別編》 事例で学ぶ物流改善:『流通系物流子会社S社』

脱・子会社を実現したチェンジリーダー売り上げの大部分を親会社に頼る物流子会社。経営幹部はいずれも親会社からの天下りで、どっぷりとぬるま湯に浸かっていた。それがわずか二年で外販比率65%を誇る有力企業に生まれ変わった。物流については全くの素人、しかしリーダーシップに溢れた熱血社長がゴーン改革さながらの大手術を成功させた。


子会社出向の辞令に落胆

S社は関東圏を中心に事業を展開するアパレル品・日用雑貨品製造小売りの物流子会社である。著者が某外資系証券会社の紹介でS社のK社長とお会いしたのは、7年ほど前にさかのぼる。当時、S社は年商20億円という規模で、社名に親会社の冠こそついていなかったが、親会社向けの売り上げが全体の95%を占めていた。
初対面の時に交換したK社長の名刺には、親会社の部長の肩書きが書かれていた。親会社の人事異動で、翌月からS社に社長として就任するという話だった。
K氏は入社以来ずっと親会社の管理畑を歩み、ゆくゆくは取締役はもちろんトップをもうかがえる人材として、将来を嘱望されたエリートサラリーマンだった。そんなK氏が物流子会社の社長に起用されたのは、親会社への依存体質が目立っていたS社の建て直しが目的だった。必ずしも左遷というわけではなかったが、K氏が自ら望んだわけではない。少なくともK氏にとって子会社への出向は、キャリア的な遠回りを宣告されたのと同じであった。
実際、K氏は辞令がおりるまで自分が物流子会社に出向になることなど全く予想もしていなかった。物流の現場を経験したこともなかったし、知識も持ち合わせていなかった。筆者との初めての面談でも「物流とは一体何ですか」と言ったレベルで、何から手をつければよいかわからないという状態であった。気持ちは分からないでもなかった。
S社は親会社を背景とした「資金力」だけが唯一の強みであった。物流会社の生き残りに不可欠な「提案力」「現場改善力」「コスト競争力」などは皆無といってよかった。しかも社名に親会社の冠がないため、一般的な物流子会社のようにブランド力・知名度で戦うこともできない。改革が容易ではないことは明白だった。
初対面から約一カ月後、S社の社長となったK氏が改めて弊社に連絡を入れてきた。「ようやく正式に就任しました。ついては話し合いの場を持たせて下さい」とのことであった。早速、筆者はK氏の待つS社の本社事務所を訪れた。受付を済ませると事務の女性社員の案内で応接室に通された。応接室といっても、電算室を改装した外から丸見えの部屋に、肘掛けナシのイスが無造作に並べられている殺風景な造りだった。
出迎えてくれたK社長は、部屋の様子を見て困惑した表情を浮かべ、挨拶もそこそこにいったん席を外した。待つこと10分。戻ってくると「申し訳ないです。S社には社長室がないんですよ」と頭を下げた。面談に相応しい部屋を探してみたものの、見つからなかったようだ。高級なソファーセットを備えた応接室を与えられていた親会社の部長時代とは大きく違う、まさに環境適応からの船出であった。それからK社長と週一回のペースで会い、物流業界についてのレクチャーを行うことになった。
K社長の吸収力は、さすがにエリートと呼ぶに相応しいものだった。会うたびに情報を知恵に変え、筆者に鋭い質問をぶつけてくる。愚痴をこぼしがちだった当初の口調も徐々に建設的なものに変わっていった。
さらに1カ月が経ち、K社長は改革の骨子をまとめた。筆者がそれを見たのは、まだ役員会のメンバーにも話していない草案の段階であった。K社長は自分の任期を2年、長くても3年と決め、それを前提に次のように改革の概要と手順を定めていた。

①親会社からの出向メンバーに危機感を共有させる
②3PL企業への進化に向けた外販比率向上と提案営業の推進
③高付加価値物流センターの開発
④③に伴う本社移転
⑤中間管理職の育成

「① 親会社からの出向メンバーに危機感を共有させる」について、S社には一般的な物流子会社の例に漏れず親会社からの片道切符の出向者が少なくなかった。多くは本社で営業や生産部門などを経た後、本社物流部に異動。その後にS社に出向という流れであった。定年になるまでの年数を指折り数えているような出向者たちには当然、危機感が欠如していた。
熱心に机に向かう常務のパソコンをこっそりのぞいたところ、ポーカーゲームを楽しんでいることが分かり、唖然とさせられたこともあった。もっとも驚くまでもないのだろう。ミッションなき子会社への出向者には、この常務のような“企業内失業者”とも呼ぶべき人物が現実に少なくないのである。改革の実施に先立ち、休日を使って親会社の保養所で少人数の研修を実施することにした。
K社長が御膳立てした経営幹部研修であった。出席した五人の幹部たちはいずれも親会社出身者で、物流の実務はほとんど知らない。K社長の就任以来、幹部たちの間にもさすがに多少はピリピリした空気が出てきていたが、何一つ具体的なアクションには至っていなかった。
研修は、物流業界の現状と業界におけるS社ポジション、S社の強み・弱み、S社の将来の方向性などをテーマに、ディスカッション形式で半日実施した。
この研修を通して筆者は、メンバーの中にK社長と共に改革を実行できる人物を見つけたいと期待していた。しかし、結果はノーであった。皆、頭でっかちで保身型の人間であった。それでも収穫はあった。自分で判断して動くことはできないが、指示されれば最低限の任務を果たすことはできるY取締役を見出すことができた。彼を社外・社内の調整役に仕立て改革を進めていくことになった。

改革のキーマンを探す
結局、改革の真のキーマンは幹部ではなく、物流子会社のプロパー社員の中にいた。このプロパー社員T氏は某物流専業者からS社に転職したものの、次々と変わる天下りの経営幹部と、何をやっても正当に評価されない組織体制にかねてから不満を持っていた。その点がK社長の目にとまり、改革を担う中間管理職として白羽の矢が立ったのだ。
次のステップ「② 3PL企業への進化に向けた外販比率向上と提案営業の推進」は物流子会社の方向性としては定石と言えるものであった。
ベンチマークの対象として当時から既に有力3PLとしての地位を築いていた上場物流企業B社を選び、K社長が音頭を採って各方面からB社に関する情報を集めた。同時にK社長は足元を固めることも忘れなかった。親会社時代の人脈や金融機関に呼びかけて営業案件の獲得に努めた。
その甲斐あってX銀行の紹介で中堅日用雑貨メーカーP社の案件が持ち込まれた。K社長就任から4カ月目のことだ。これがS社にとって、初ともいえる本格的な外販案件になった。
それまでもS社は親会社向けの事業でP社と同様の日用雑貨品を取り扱っていたため、新規案件といっても心理的な抵抗感は少なかった。しかし親会社とは異なり、P社の販売先は量販店向けがメーンであったため商品の「回転率」に雲泥の差があった。親会社の約5倍という回転率であった。当然、1日当たりの受注数、出荷頻度、作業効率などが全く違ってくる。慣れない作業に現場は当初、混乱を極めた。K社長をはじめ幹部や事務スタッフまで総出で徹夜をすることもしばしばであった。結局、混乱は1カ月ほど続いた。
この時の悪戦苦闘ぶりは7年たった今でも社内で話題に上るほどの逸話となっている。しかし、この苦労がS社に様々な効用ももたらした。
まず現状の体制で対応できる限界と課題、S社に何が足りないかが明確になった。新たな発見もあった。自社ではそれほどでもないと認識していた「システム力」が、量販店の受注などにも対応できたことで一定のレベルに達していることが分かった。K社長は「なんとかなる」と手ごたえを感じ、これを機に外資系アパレルメーカーを新たな営業ターゲットに据えた。
メンズ・レディスのカジュアルブランドの物流コンペには必ず参加するようにした。戦績は勝ったり負けたりで5分の戦いであったが、着実に荷主は増えていった。新規荷主開拓の原動力となったのが前述のプロパー社員、T氏の営業力であった。
T氏は自社で対応する業務と同業者に依頼する業務を切り分け、協力してくれる同業者を見つけるのがうまかった。S社をヘッドとした協力業者とのネットワークで対応する、この「連合軍」でほとんどの物流コンペを戦った。
T氏は文字通り東奔西走し、1日4、 5社の物流会社を訪問していた。そしてまだ提案営業と言えるレベルではなかったが、T氏オリジナルの提案書と見積書を持ち、物流コンペにせっせと足を運んだ。
筆者もT氏に帝国データバンクの企業情報の活用方法などを伝え、荷主、物流企業の事前情報収集を支援した。
その結果、今ではS社はアパレル・日用雑貨以外にも業務用機部品や食品などに取扱いを拡大させている。
ちなみに、S社が物流コンペや提案型営業で受注にたどりつけた理由の1つに社名があった。社名に親会社の冠のないことが逆にプラスになった。会社説明で物流子会社であることを隠すわけではなかったが、冠のないことで荷主には「中立性のある物流会社」と評価されたのであった。

2004年12月■特別編●画像①

先行投資で事業を拡大
「③ 高付加価値物流センターの開発」は、以下のような様々な要素を背景にして打ち出された方針だった。
もともとK社長は3PLにはアセット型が有利という考えを持っていた。車両は傭車でまかなえても、センター/倉庫は自社所有することによるメリットのほうが大きい。それによって流通加工業務などを請け負える、という発想だ。
もともとS社には投資余力があったうえ、親会社は遊休地を抱えており、これを安く賃借できる環境にあった。
またK社長には、在任期間中にS社の再建に貢献したことを示すシンボルを残しておきたいという気持ちもあったようだ。もっとも、これらの理由だけなら、筆者としては「待った」をかけたいところだ。
しかし新規受注が増えたことで、既存の3カ所のセンターは既に手狭になっていた。今後も売り上げの拡大を続けて行くには先行投資も間違いとはいえなかった。前向きな投資には社内の士気を高める効果もある。
こうして延べ約2000坪の新センター建設が決断された。着工から一年、一階には荷捌きレーンと流通加工スペース、2階に保管スペースを擁した立派な物流センターが完成した。結局、この新センターが同社の武器となり、その後の荷主拡大に大きく貢献することになった。
さらに兄弟会社である食品スーパーの受託をきっかけに冷凍・冷蔵・チルド分野にも手を拡げた。定温物流には一般物流とは異なる運営ノウハウが必要だ。そのため定温物流の専門業者と提携。当初は担当者を派遣してもらい対応した。
インフラ投資も行った。定温物流進出から43年後、既にK社長は退任していたが、前述の新センターに隣接して三温度帯の食品物流センターを完成させた。周辺エリアに同タイプのセンターがなかったため、現在では、ほぼ満庫状態となっている。
「④ センター建設に伴う本社移転」も計画通り実施した。それまでS社の本社は親会社の物流部と同じ建物内にあった。エレベーターの中で親会社の物流部と外販好調のS社のメンバーがかち会うと独特な雰囲気に包まれた。
「脱・子会社」を目指すK社長はじめとした改革メンバーにとっては、鼻をつまみたくなるような建物であった。そこで物流センター完成と同時にS社は本社を移転させた。
「⑤ 中間管理職の育成」は、K社長就任中には実現しなかった。もともと時間のかかるテーマであることに加え、ぬるま湯体質の幹部・中間管理職の意識を変えるのは容易なことではない。それでも先ずは正攻法の研修という方法を取ることにした。
カリキュラムの作成は実務を熟知し、自社の体質に危機感を持っていた現場担当者に任された。筆者はその担当者と打ち合わせて、人材育成の基本方針を確認しあった。その基本方針とは、「やる気と向上心のある人物とそうでない人物を分ける。そしてやる気と向上心のある人物に対してだけスキルアップ・レベルアップを図る」というものであった。
やる気のある人物を見出すため、最初にやや精神論的な意識改革研修を管理職全員対して実施し、感想文を提出させた。それを元に、我々NLFと現場担当者で振り分けを行った。結局15人ほどの人員に絞られた。彼らを対象に本格的なマネージャー育成研修を実施した。この研修は現在も継続している。
教育研修の効果測定は難しい。
しかし改革着手から7年でS社の年商は当初の二倍、40億円近くに拡大している。同時に95%を占めていた親会社向け売り上げ比率は激減。現在は外販比率が65%を超えた。今もなお新規荷主は増え続けている。
改革のキーマンとなったプロパー社員のT氏は現在、部長に昇格し、組織を引っ張っている。素人社長の凄さK社長は公約通りS社を2年で卒業し、その後も別の関連会社改革に起用され、やはり2年で改革を成功させた。
現在は既に引退しているが、この“リトル・ゴーン”とも呼ぶべき改革リーダーの活躍は筆者には印象的であった。独断力、わがままなほどの実現力、威圧感とアクを持っている。そして「モウレツな勉強家ですよ」と、紹介者である外資系証券会社の担当が言った通りの熱い人物であった。
実際、就任6カ月目には物流のプロ経営者にすっかりなり切っていた。改革には反対勢力がつきものであるが、S社の場合はK社長のキャラクターと熱意、姿勢がそれを限りなく無にさせた。これは筆者には大きな出来事であった。
大企業のエースクラスともなると、やはりこれぐらい優秀なのかと思うと同時に、物流業界の常識に縛られないK社長の“素人性”の威力には唸らされた。それとは対照的に現在の物流業界には“負け組”とされる企業に何もせずに居座る経営者が珍しくない。
「業界の革命者は異業種から現われる」と言う。そしてビジネスには幕を開ける人物と継承していく人物、そして幕を閉じる人物がいる。
K氏の物流業界における活躍をもう一度見てみたい。そう思うのは私だけだろうか。