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第50回 事例で学ぶ物流改善:『物流業経営者C社長の苦悩と再起』

久しぶりに見るC社長の姿は憔悴し、まるで別人のようだった。採算の悪化で気力を失い、経営の第一線からも身を引いてしまったという。型通りのコンサルティングでは解決できない。経営者の精神状態にまで踏み込んだ改革が必要であった。

げっそり痩せ細った姿に
物流会社Y社は名古屋、東海地区を地盤に食品物流を手がけている。
同社を創業したC社長とは既に12年来の付き合いである。Y社でC社長の番頭役を務めるS氏から久しぶりに連絡が入った。C社長が私に会いたがっているという。C社長の代理で電話をくれたのだが、面談の目的が今ひとつ釈然としない。
S氏の話しぶりから、通常のコンサルティングの依頼ではないように感じた。とりあえず面談の日取りを決めて、電話を切った。
しかし、その後もS氏の電話のことが頭から離れない。嫌な胸さわぎがした。改めてS氏に電話を折り返した。面談の日程を前倒しにして、直近の日曜日にY社を訪問することにしたのである。
数年ぶりに会うC社長の姿に私は驚きを隠せなかった。げっそりと痩せてしまい、別人のようだ。
「いやぁ、青木さん。これからの経営をどうしていったら良いのか。分からないんですよ」という第一声にも全く張りがない。病人のようだった。というより、完全に病人であった。
C社長は自らY社を創業し、これまで4半世紀にわたって食品に特化した物流会社を経営してきた。知名度こそないものの、口コミ、紹介などで荷主を着実に増やしていった。
事業規模は順調に拡大し一時は年商18億円にも達していた。ところがその後、同業者との競争激化や既存荷主の値下げ要求などで採算が悪化。赤字ギリギリに追い込まれた。
次々に押し寄せるコストアップ要因、地元のライバル企業によるドライバーの引き抜き、いくら頑張っても明るい兆しが見えない。
苦悩の経営が続き、三年前にとうとうC社長の気持ちが折れた。何もする気がしない。好きなゴルフに行っても楽しくない。
ついには会社の切り盛りを番頭役のS氏に任せ、経営の第一線から身を引いてしまった。一種の精神疾患であった。
C社長自身そのことをよく分かっていた。今の状態から脱出するため、東は青森から西は鹿児島まで、ありとあらゆる人物と会い、可能な限りのことを試みたが、うまく行かなかったという。それでもC社長はまだ恵まれているほうだろう。
自分が退いても、回していけるだけの人材と資金繰りが会社に備わっていたからである。C社長以上に厳しい環境下に置かれている物流業経営者とも私は数多く接している。
昨今の人手不足、燃料高騰、道路交通法改正等の社会的規制の強化、さらには荷主からの値下げ要求など、物流業経営者の多くが日々苦悩の経営を続けている。地場の物流会社に景気回復の実感などない。
帰りの新幹線の中で、C社長にどのような提案をすれば良いのか考え続けた。しかし答えが出なかった。
そのままの状態で後日、再びC社長と会った。私は通常の面談では、相手の話の合間あいまに解決策や提案を挟むようにしているが、この日はC社長の悩みや気持ちを聞くことに徹した。
実は私も以前にC社長と同じような精神状態に陥った経験がある。そんな時は、誰かに愚痴を聞いてもらうだけでも癒されるものなのだ。

新しい物流会社を作ろう
その後も幾度かC社長と電話のやりとりや訪問を行った。そして、C社長に提案した。
「新しい物流会社を作りましょう。Y社と棲み分けができて、相乗効果の出るような物流会社を」という提案であった。
それによって、C社長の活力も取り戻すことができると私は密かに考えていた。
C社長の原点は起業家である。しかも、まじめな経営者である。C社長には、やりがいのある目標や希望が必要である。成長の手応えは経営者を奮い立たせる。バリバリ働くことで、また活力を取り戻すことができる。仕事によって失われた活力は、仕事で取り戻すのが一番である。
そう私は考えた。C社長の様子が少し変わった。ニヤニヤしているではないか。
「青木さん。そう簡単に会社なんて興せませんよ。もう年ですからね」。しかしC社長は57歳。老け込むには早い。まだまだ頑張れる年齢である。
「C社長。でも会社を創業することは嫌いではないでしょう。イメージがつかないだけではないですか。元々、Y社を創ったのはC社長ですよ」と返した。
C社長の表情が少し真剣になった。「青木さん。ところでどんな物流会社をつくるつもりなの?」とC社長。
「走らない物流会社。このあたりにはない仕事をする会社です」と私。
この日の話し合いはここで打ち切りにした。そして次に会うときに、お互いに新会社のアイデアを出し合うことを約束した。ひとつ条件をつけた。
条件が整わない場合には、実際に起業しなくても良しとする。アイデアを出し合うだけで終わってしまっても構わない、ということであった。
これは心身とも疲れきっているC社長への配慮であった。
しかし私としては何としてもC社長に実行させるつもりであった。C社長が起業しないのなら、私が実行するつもりでいた。
それから10日後、改めてC社長と会った。「C社長、何かいいアイデア出ました?」と尋ねたが、
「今の俺にはそんな力も残っていないんだよ」という力ない返事だった。
私からアイデアを説明した。「C社長。私は物流の請負事業はどうかと思っています」。その理由は以下の通りである。

①当エリア周辺は慢性的な人手不足にあり、ニーズがある。
②ハードでは大手に勝てない。ソフト(付加価値)で勝負する。
③物流請負事業に特化することで、他の請負事業者や人材派遣業者と差別化できる。
④Y社は輸配送と一部の保管を中心としているため人員確保の際に相乗効果を見込める。
⑤手元資金でスタートできるため、資金調達の精神的負担が大きくならない。

C社長がだんだん身を乗り出してきた。さらに具体的な計画を伝えた。
名古屋の中心地はさすがに同業他社との競争が激しい。そこで名古屋営業所はY社内に設置して固定費を抑え、別に浜松営業所を設立し、そこで登録者を確保する。同時に周辺の静岡エリアの顧客を開拓する。
営業面と登録者の確保についてはホームページを最大限活用する。内容の充実したホームページを立ち上げるとともに、アフィリエイト型広告(検索エンジンやメールマガジンなどにリンクを張って、インターネット利用者を自社のホームページに誘導する広告手法)を利用する。
広告費の月額予算は30万円から40万円程度に設定する。最大の課題は、人材派遣業の経験を持つ管理スタッフの確保だ。物流請負事業をメーンに手がけるにしても、人材派遣業の登録や知識は必要だ。
しかし、Y社の社内には当然ながら請負事業や人材派遣業のノウハウはない。外部から担当者を登用する必要がある。
しかし、人手不足の折り、請負事業や人材派遣業は活況を呈しており、管理スタッフはどこも不足気味だ。
これについてはY社に出入りしている派遣事業者の中から良い人材を見つけることができないか。Y社を切り盛りしているS氏に相談することで、糸口がつかめるかも知れない。
「そこまで計画ができているんなら、青木さんが自分でやればいいじゃないか」とC社長。「もちろん私も手伝います。しかし、これはC社長がやるから意味があるんです。C社長でなければできない仕事なんです」
——途中そんなやり取りもあった。私は慎重にならざるを得なかった。かなり神経質にもなっていた。私の提案が受け入れられなければ、あるいは提案が受け入れられたとしても事業がうまく軌道に乗らなければ、C社長はどうなってしまうか分からない。
最悪の場合まで想像せざるを得ないほど、C社長は疲れ果てていたのであった。

売り上げは全てを癒す
数日後、私の携帯電話にC社長から連絡が入った。
「この間の件だけど、うまくいくかは5分5分というところだろう。しかしやってみる価値はありそうだね」。
こうして第一ステップをクリアした。それから3カ月かけて準備に入った。
途中、計画内容を変更せざるを得ないことも出てきた。都市部であれば物流だけに特化しても一定の売上規模を確保できるが、地方ではそう簡単にはいかないことが分かってきたのである。物流だけでなく製造や事務分野まで対象にしないと必要な売り上げに届かない。
しかし、それによって同業者との差別化は難しくなってしまう。人材教育によって品質を強化する必要があった。ただし時間は限られている。
C社長の今の精神状態を考えると、創業時の苦戦が長く続くことには耐えられないだろう。スタートから六カ月以内には新事業の手応えを感じさせたい。そこで『1日ホット研修』と名付けた、超速成人材教育を施すことにした。
新規登録者に一日かけてあいさつや整理整頓などの基本を教え込む。これと並んで物流センターや工場の倉庫へ派遣するスタッフ向けに「物流ハンドブック」を作成し、現場に向かう間や休み時間に目を通すように通達した。
決して十分な教育とは言えない。本来なら知識の習得を確認するためのテストも実施したいところだ。
しかし、やり過ぎれば登録者に煩わしいと敬遠されてしまう恐れがある。派遣スタッフの多くは複数の会社に登録し、条件が良い仕事を選んでいる。教育研修が仇になってはならなかった。
ホームページの活用も当初は苦戦した。日を追うごとに問い合わせ自体は増加していった。しかし料金を聞くだけの冷やかしも多く、なかなか案件に結びつかない。
そこでホームページに活用事例などを掲載するようにして、見せ方を工夫した。これで売り上げにつながる案件が増えてきた。
人材派遣業のノウハウを持った管理スタッフの確保は思ったより上手くいった。Y社と付き合いのあった協力派遣会社のスタッフなどを候補としてリストアップして声をかけた。第一候補者にはあっさり断られた。しかし第二候補者は約一カ月考えた後、承諾してくれた。今では5人の部下を抱えるリーダーに育っている。
こうして約2年が過ぎた。業績は1年目こそ赤字だったが、2年目は1500万円の黒字を計上することができた。年商は約3億5000万円。まずまずの滑り出しである。
この会社に現在、C社長は常勤している。当初は仕事の流れを掴みかねていたところもあったが、最近では鋭い指示を飛ばすようになった。起業家特有のアクの強さが戻ってきた。
売り上げは全てを癒す——ダイエーを創業した中内氏の言葉だ。
本誌読者もご承知の通り、晩年の中内氏はダイエーの業績悪化によって失意のなかで生涯の幕を閉じた。
しかし中内氏の残した言葉は、今も生き続けている。そう私には思えてならない。