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第99回 事例で学ぶ現場改善:『親会社の業績不振に振り回される』

改革は成功した。商物分離を導入し、苦労の末に安定稼働に乗せたことで営業力は大幅に向上し、業績は順調に拡大していった。ところが、そこに思わぬ横やりが入った。株主の交代だ。新たな親会社となった物流会社が無謀なコストダウンを強要。現場は大混乱に陥った。

商物分離に悪戦苦闘
A社は年商80億円。北関東に工場を置き、全国7都市に営業所を展開する印刷会社だ。
高級ホテルやレジャー施設などを主な顧客として印刷物の製造を請け負っている。同社の物流改善については以前に本連載(2006年1月号)で紹介したことがある。
テーマは商物分離で、「フィールドサービス」と呼ぶ納品専用スタッフを組織して、営業マンを物流業務から解放するという取り組みだった。
それまでの体制では営業マンが納品に時間を取られてしまい、長時間の残業が慢性化していた。また営業マンは運転のプロではないことから、車両事故や交通違反の件数が多いことも悩みの種だった。
プロジェクトのサポート役を依頼された我々日本ロジファクトリー(NLF)は、A社の営業マンのルートバンに同乗して納品業務の検証を行った。その結果、商物分離は可能という結論を下した。ただし、その対象は取引額・納品量の多いAランクの顧客と少ないCランクの顧客に限定した。
Bランク顧客に対しては、営業マンが納品を兼ねてセールス活動を行うという従来のスタイルが有効であると判断し、客離れを回避するために商物分離を見送ったのだ。Aランク、Cランクへの納品にもアレンジが必要だった。
トラックを使用することはできなかった。トラックで納品するほど物量が多くないことに加え、高級ホテルなどに納品する場合、トラックは景観の点から敬遠されてしまう。またドライバーはスーツ・ネクタイを着用し、「フィールドサービス」という肩書きでA社の名刺を持って納品する必要があった。
ドライバーにクライアント名のプリントされたジャンパーなどを着用させるケースは珍しくないが、スーツを着させるとなると、対応できる物流会社を探すのは一苦労であった。
それでも、新しい事に積極的にチャレンジする姿勢を持つ物流会社のT社が「A社の指導を受けながら対応していきたい」と名乗りを上げてくれた。
これを受けて、改革の第一弾としてS営業所でプロジェクトがスタートした。当時のS営業所は売上規模こそ大きいものの、売り上げや利益率は低迷し、営業マンの定着率も悪かった。
他の営業所と違って、S営業所は営業マンが納品業務だけでなく、印刷原稿の工場とのやり取りや、校正業務まで行う必要があった。物流面でもS営業所は工場からの製品入荷時間が遅く、営業マンの営業所出発が早くても午前10時、遅ければ12時になってしまうという課題を抱えていた。
このうち営業マンの定着率の悪さは、商物分離プロジェクトにおいても大きな足枷となった。
T社がS営業所向けのフィールドサービスに投入した5人のスタッフは短期間で仕事を覚え、着実に熟練度も上がっていった。しかし、彼等のサポート相手となる肝心の営業マンが定着しない。そのため得意先は本来なら営業マンが対応する注文や製品に対する質問を、フィールドサービスに対して投げかけるようになっていた。
営業マンとしての教育を受けていないフィールドサービスは当然、スムースには対応できない。一度営業所に持ち帰ってから、改めて注文の確認や質問の回答を電話で連絡するしかなかった。それでも商物分離によって営業マンの残業時間が減少したことから、定着率は少しずつ改善していった。すると今度はT社のフィールドサービスがA社の新人営業マンに顧客や商品について指導するという逆転現象まで発生したのであった。
工場からの製品入荷時間の遅れに関しては、プロジェクト開始以降、一段と悪化する傾向が見られた。A社では商物分離プロジェクトと並行して、工場でも出荷ミスの低減を目的とした業務改善を行っていた。その結果、工場の出荷作業が混乱し、入荷が早まるどころか、余計に遅れるようになっていたのである。
そこで我々は路線会社の配達を待つのではなく、工場出荷を路線会社の〝営業所止め〟にして、フィールドサービスが荷物を引き取りに行くことにした。
その結果、朝礼後の朝8時40分には営業マン、フィールドサービス共、営業所を出発できる体制が整った。
印刷原稿の工場とのやり取りや校正業務についても、A社のサポートスタッフから約一カ月間の指導を受けることで、2カ月目からはフィールドサービス側で対応できるようになった。

営業力強化に成功
1カ月以内の安定稼働という当初の目標はクリアできなかったものの、こうして2カ月半程度でA社の商物分離は軌道に乗ったかに見えた。
ところが、一安心したのも束の間、今度はT社のフィールドスタッフがパラパラと離脱し始めた。営業スタッフの仕事までフィールドスタッフが抱えてしまったことが原因だった。
フィールドスタッフの人員安定化には結局、約6カ月を要した。その間、T社の社長は頻繁にA社に呼び出され、A社の営業部長から文句を言われてばかりの毎日であった。それでもフィールドサービスのオペレーションが安定度を増していくほどに、呼び出しの回数は少なくなっていき、業務開始から1年を過ぎた頃には、商物分離の効果がS営業所の業績にハッキリと現れるようになっていた。
営業マンが物流作業や雑務から解放されて営業活動に集中できるようになったことで、S営業所は売り上げの伸び率、利益率とも全国7営業所のなかでも常にトップクラスに入るようになった。先のリーマンショックでも売り上げを落とすことなく、〝そんなことは他所の世界の話〟と逆風下にも猛攻をかけて業績を伸ばした。
S営業所の歴代の所長は人事異動のたびに昇進し、全社の模範営業所となったのであった。ところが、現場スタッフにはほとんど知られることもなく、この間にA社の経営には大きな変化が起こっていた。株主の変更である。
プロジェクトに着手した当初、A社は独立系ファンドの傘下にあった。そのファンドは業績が伸び悩んでいたA社を買収し、商物分離をはじめとする改革を実施して企業価値を高めたうえで、他社に売却しようという考えだった。
A社の売却では様々な企業との交渉があったと聞いているが、最終的には大手物流会社のM社に譲渡することになった。ファンドから物流会社に親会社が変わったわけである。
買収後の約1年間は、M社から大きな口出しはなく、経営陣が送り込まれることもなかった。それがA社の順調な業績によるものなのか、それとも他に理由があったのかは分からない。しかし、A社に経営の自主性が与えられていることを筆者は肯定的にとらえていた。

親会社の業績低迷で暗雲
我々NLFはS営業所の商物分離成功を見て、A社のコンサルティングを終了した。
それからしばらく経った後、S営業所の改善時に一緒に汗をかいた専務から年賀状が届いた。肩書きを見ると〝専務〟も〝取締役〟も外れている。降格である。先のプロジェクトを成功に導いた立役者であり、今後のA社を背負っていく人物だと信じていただけに意外であった。
後になってわかったことだが、A社の新たな親会社となったM社の判断によるものだった。〝元専務〟はM社の打ち出した方針に反対したことでボードメンバーから外されたのであった。
この降格人事をM社の判断ミスと考えるものがA社の現場には少なくなかったようである。親会社のM社はA社の買収から間もなくリーマンショックに襲われた。業績は急落し、他の大手物流会社が回復基調に戻ってからも、M社には一向に回復の兆しが見られなかった。むしろ有利子負債が増え、経営不振が深刻化していった。
グループを挙げたリストラが必要になり、その矢面にA社が立たされた。数カ月をかけてA社の改革策が検討されて、新たな方針が打ち出された。その内容は人件費と社外支払い費用の削減であった。全国7カ所の営業所を五カ所に集約。事務派遣をパート・アルバイトの直接雇用に切り替えてコストダウンを図るというプランであった。
「フィールドサービス」も3カ月をかけて内製化することになった。M社の方針と現場との板挟みとなったA社の中間管理職は、タイムリミットまでに直接雇用のパート・アルバイトを集めることができなかった。
そのため苦し紛れに既存の事務派遣会社やT社のスタッフを無断で引き抜くという〝掟破り〟にも手を染める始末だった。フィールドサービス内製化の開始日、現場は大混乱に陥った。
営業所の電話は鳴りっ放し。「商品が届かない」、「商品の中身が違う」、「営業の人が来ない」などのクレームが殺到した。
それから3カ月を経た現在も混乱の収拾にメドは立っていない。T社を協力会社とするフィールドサービス体制はスタートから5年を経て、運用も洗練されていた。それを一週間程度の引き継ぎで内製化するという計画には無理があった。
しかし、A社の中間管理職たちはM社から指示されたコスト削減目標のプレッシャーから、半ば無理を承知で荒療治に出たのであった。その結果、S営業所の高成長・高収益体制は崩壊した。それまで積み上げてきた改革が無となってしまった。
筆者にとっても今や手離れしている案件とはいえ、残念でならない。