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第104回 事例で学ぶ現場改善:『オーナー系倉庫会社M社の25年目の夏』

先代から引き継いだ事業を売却し、その資金で倉庫事業に参入した。しかし、世間は甘くなかった。いくつもの壁にぶつかり、そのたびに辛酸をなめながら四半世紀を何とか生き抜いてきた。そこにリーマンショック、そして東日本大震災が襲った。経営の現実を直視できなくなった経営者は酒と女に溺れていった。

徒手空拳で倉庫事業に参入
M社は東北に本社を置くオーナー経営の倉庫会社である。
年商は10億円に満たないが、単純なスペース貸しの他に、一部、営業倉庫事業も手掛けている。
社長のS氏はM社の二代目だが、先代の時代までは倉庫業ではなく別の事業を営んでいた。S氏は大学院卒のインテリで、他の道を選択することもできたのだが、父親の懸命に働く後ろ姿を見て跡を継ぐ決意をした。ただし、先代の手がけていた事業は自分には不向きで、将来性もないと考えた。
そこで先代とも相談のうえ、事業を売却し、その資金で先ずは一棟目となる延べ床2000坪の倉庫を建設したのであった。倉庫事業に活かせるような人脈や知識を持ち合わせていたわけではなかった。
アパート経営のような感覚で見知らぬ業界に飛び込んだ。今になって振り返れば無謀な賭けではあった。それでもS氏の人なつこい性格と勤勉さが奏功して、徐々にではあったが倉庫経営の基礎を修得していったのであった。
それから今年で25年になる。ここに至るまでに様々な壁にぶちあたった。最初は「営業」の問題であった。
立地の良い場所に倉庫を建てれば、自然と店子も集まるだろうと、当初は甘く考えていた。しかし、とてもそんなものではなかった。
M社の倉庫は物流拠点として申し分のないエリアに立地していたが、その分、周辺には競合となる倉庫が多くあった。
S氏自ら飛び込み営業を行い、倉庫の空きを埋めようと懸命に働いた。しかし、「よそと比べて賃料が高い」、「おたくの〝売り〟は何なの」、「そんな倉庫会社は聞いたこともない」と、にべもなかった。それでも3年続けた飛び込み営業で、多くのことをS氏は学んだ。
貸倉庫と言えどもソフトがなければ客はつかないこと。そのためには単純なスペース貸しと並行して
倉庫業務も請け負う必要があること。
さらにはスペース貸しと業務請け負いのバランスが重要であること。その割合は50対50程度が適切であること等々、営業面で多くの苦汁を舐めた経験が現在のM社の運営ノウハウの一つとなっている。

営業の次に直面した壁は、「人と組織」の問題であった。
素人のS氏には、物流人材、物流現場に求められる人物像を描くことができなかった。採用しては辞めていく。その繰り返しが長く続いた。そんなある日、知人の紹介でT氏が入社してきた。物流経験は数年足らずということだったが、それまで採用した人物とは一味違っていた。実直な人柄で、毎日夜遅くまで黙々と働く。
このT氏が定着するようになって、磁石のように現場の人材が固まってきた。組織らしくなってきたのであった。

酒と女に溺れ現実逃避
延べ床2000坪の8割が埋まり、うち約1300坪が賃貸、残り約300坪が自社運営というバランスになった頃であった。
それまで現場は正社員だけで回していた。しかし残業が毎日続き、スタッフは疲弊しきっていた。庫内作業にパート・アルバイトを投入するため、新聞チラシによる募集を行った。ところが、何度広告を出しても、問合せの電話すら鳴らない。調べて見ると、募集賃金(時給)が周辺倉庫に比べて50円安く、業務内容の表示も「作業全般」とわかりにくかったことなどが原因であった。募集広告を修正したが、時既に遅かった。
現場作業に当たっていた2名のスタッフがダウン。急遽、派遣スタッフを投入したが、すぐに作業をこなせるわけもない。出荷できない状態に陥り、荷主に大きな迷惑をかけた。多額のペナルティの支払いを余儀なくされた。
そのうえ大量に派遣スタッフを使ったことで採算割れに陥り、それから3カ月後にはその業務から撤退せざるを得なくなった。
S氏はクレーム対応、派遣契約解除などの後始末に追われた。ダウンした2名の社員も結局、「こんな会社にはついて行けない」と退社してしまった。
満身創痍のS氏に追い打ちをかけるように、3番目の壁、「カネ」の問題が浮上した。一般に倉庫会社は賃料という安定収入に加え、担保となる不動産を所有しているため、資金調達は他の業種よりも容易だ。
金融機関が設定する売上高に対する貸付限度額も他の業種より高い。そのため中小中堅倉庫会社のなかには、年間売上高と同等か、それ以上の借入金のあるところが珍しくない。M社もほぼ売上高に匹敵する借入金を抱えていた。
しかも業務運営での失敗が響き、運転資金は常に枯渇気味で、借入金が一向に減らない状況であった。
現状を打開するために、S社長は勝負に出た。
2棟目となる3000坪の倉庫を新設したのだ。8年前のことだ。荷主の当てがあっての投資だったが、これによってM社の借入金は売上高の3倍近くまで膨れあがった。
2棟目の倉庫は当初は順調に稼働していた。ところが、その後のリーマンショックで物量が急減。それもようやく回復してきたと思った矢先に今度は東日本大震災に襲われた。M社の倉庫も被災を免れなかった。
S氏は戦意喪失状態に陥った。次第に会社経営の現実から目を背けるようになってしまった。社内には会合と言って毎晩やけ酒ならぬ豪遊を続けた。会社に出勤しない日もあった。銀行からの借入金が飲み代と女遊びに消えていく。代償は大きかった。
ついには現場の要であったT氏が退職、組織は崩壊した。その結果、業務運営の全ての仕事から撤退せざるを得なくなった。残されたのは賃貸収入のみとなってしまった。
S氏と著者が出会ったのはこの頃であった。ある勉強会の終了後、主催者がS氏を紹介してくれた。その後、食事を共にしたり、勉強会でお会いしたり、時々、メールや電話で情報交換をしていた。
ある日、我々日本ロジファクトリー(NLF)の東京本社でS氏とお会いすることになった。商売に対するグチも見え隠れしていたが、何かを掴むきっかけを探しているようだった。様々な質問への回答と情報交換を行なっていると、あっという間に2時間が過ぎていた。
後日、S氏からある分野の物流業務に本格的に取り組みたいという連絡があった。筆者も参加して第1回目のプロジェクトミーティングを行った。
そこには、新たにM社に入社した若手幹部も同席していた。明るく、聡明で優秀なスタッフであった。
その人となりを見て、筆者はS氏が経営を改めて直視し、困難に真っ正面から取り組み、再起に向かって一歩を踏み出したかのように感じた。S氏の反省と決意が若手幹部の姿勢に反映されているように見えたのであった。

生まれ変わった二代目
S氏が新たなターゲットとして狙っている分野には、既に多くの物流会社が参入しており、M社は後発となる。
M社の倉庫には必要な設備も整備されておらず、苦戦を強いられるのは必至だった。そこでニッチ戦略をとり、
小規模荷主でも構わないので6カ月以内に最初の案件を獲得することに目標を置いた。
我々NLFからは次の6項目の攻略ポイントおよび選択肢をM社に対して提示した。

1.受注センター業務への対応
①アウトソーシング
②M社運営
③荷主運営によるオフィス貸し

2.対象分野で必要とされる
  取扱免許の取得
①特殊実務の代行
②専用センターの設置

3.他社とのコラボレーション
①中堅同業者(倉庫業)
②システム関連会社
③3PL会社

4.自社ホームページの改善
  (SEO対策の見直し)
①解析ソフトの設置
②適切な検索キーワードの設定

5.NLFホームページへのリンク

6.荷主候補の紹介

プロジェクトメンバーの反応は速かった。
S氏自ら取扱免許の許認可申請の手続きに着手すると同時に、ホームページ改善委員会をすぐに別プロジェクトで立ち上げた。あるメンバーからは攻略先リストがメールで送られてきた。
S氏からも頻繁に連絡が入り、質問や進捗が報告される。始まったばかりのプロジェクトが凄まじい勢いで動き出した。
受注こそまだ果たしていないが、見込案件が3社ほど発生している。何より、S氏がまるで別人のように生まれ変わろうとしているのが大きい。